2017/05/30

鳩森八幡神社

渋谷区千駄ヶ谷にある神社。江戸時代には江戸八所八幡宮の一社としても数えられ将軍家からも崇敬を受けた。


創建は貞観二年(860年)に慈覚大師(円仁)が関東巡錫の際に鳩森のご神体を求める村民の強い願いによりこの地に神功皇后と応神天皇の御尊像を作り正八幡宮としたことに由来する。


表参道は東側だが北側にも鳥居がある。表参道から進むと右手に手水舎、正面に社殿がある。手水舎の右手には立派な能楽殿があり、大祭りには実際に能が奉納されるようだ。


社殿右手には境内社として神明社、境内にある富士塚には富士浅間神社、富士塚横には甲賀稲荷社も鎮座している。


富士塚は都内で現存するでは最も古く、東京都の有形民俗文化財にも指定されている。他の富士塚では山開きの日しか登れないということもあるようだがここは一年中登れるようだ。


この他、日本将棋連盟が制作した大駒が奉納されている将棋堂や沿道にある庚申塚など見所が多い。境内は緑も多く菖蒲などの花が見られることからベンチで休息している人の姿がよく見られる。


御朱印は社務所で鳩森八幡神社のものと富士塚のものが両方いただける。人が多い時は番号札を受け取って待つ形式になる。オリジナルの御朱印帳もあるようだ。


2017/05/28

水天宮

日本橋蛎殻町にある神社で福岡県久留米市の久留米水天宮の分社。御祭神は天御中主神、安徳天皇、建礼門院、二位の尼で日本橋七福神巡りの弁財天も祀られている。


水天宮と言えば安産や子授けのご神徳があることで有名だが、水難除けや芸能祈願などにもご利益がある。


本来は第九藩主・有馬頼徳公の屋敷神として祀られたもので、庶民の参拝は許されなかったが、毎月5日の縁日に屋敷が開放されたため「なさけ有馬の水天宮」という言葉が江戸で流行ったという。

明治4年に屋敷の移転とともに青山に移ったものの翌年には現在の日本橋蛎殻町に移転。平成28年4月に新社殿が完成し、境内は最新の建築技術が施されたビルのような構造になっている。


階段を上っていくと広場のような境内が開け正面に社殿が構えている。左手には手水舎、参道の途中には末社の辨財天や安産子育河童などが並ぶ。参道に入る前にはマッチョな狛犬が出迎えるが、これはブリヂストンの創業者・石橋正二郎が奉納したものだ。


完全にビル構造になっている社務所(授与所)の階段をさらに上っていくと御朱印受付コーナーがあり、そこで御朱印をお願いする。お受けする際に御饌米と由緒記もいただくことができた。


小網神社

人形町に近い日本橋小網町にある強運厄除、金運アップのご利益があると有名な神社。御祭神は倉稲魂神、市杵島比賣神(弁財天)、福禄寿で銭洗い弁天としても知られる。


創建は文正元年(1466年)、辺りで悪疫が流行していた際に網師の翁を稲荷大神と崇めれば悪疫は消滅するとご神託があり、それに従って村人が神社を建てたのが始まりとされる。


第二次世界大戦の際に当神社の御守を受けた兵士が全員生還したり、東京大空襲の中で社殿を含む境内建物が戦災を免れるなど「強運厄除の神さま」として崇められる数々の理由があるようだ。


現在はビルの谷間に位置し、境内も小さいため鳥居をくぐるとすぐ右手が手水舎、目の前はすぐ拝殿となる。手水舎の奥には中央区指定文化財にもなっている神楽殿、左手には福禄寿や弁財天など密度が高い。


御朱印は境内左手にある社務所でいただける。福禄寿と弁財天の御朱印は次回お詣りにきた際にいただくことにして、今回は小網神社と例大祭の限定御朱印を受けることにした。


限定御朱印は書き置きのみで見開きタイプ。御朱印帳にお貼りくださいと案内があった。折り曲げて自分で貼るのは緊張するが後ほどチャレンジしたい。


(追記)2017.10.27
平成29年10月27日(金)~29日(日)まで、弁財天大祭を記念して限定の特別御朱印と財運守(600円)が授与された。


土・日は台風と重なったため金曜日に行くことができてよかった。平日でも近所の会社の人たちが参拝に来ていて賑わっていた。



2017/05/22

七社神社

北区西ヶ原にある神社。寛政五年の火災により古文書等が焼失したことにより創建年代は不明だが翌年の秋分の日には社殿が再建され、この日を大祭日としている。


江戸時代まで七柱の神を祀っていたことから七所明神と呼ばれ、古くから子宝・子孫繁栄のご神徳があるとして崇敬を集めていたらしい。


御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度売命、市寸島比売命、仲哀天皇、応神天皇でもともとあった一本杉神明宮は明治二年に七社神社遷座の際に天祖神社に改称し境内末社となった。


本郷通沿いに大鳥居があり、そこをくぐって真っ直ぐ進むと二の鳥居が見えてその先が境内となる。右手に手水舎、左手に神楽殿があって正面が社殿という配置。広々として緑も多くとても落ち着く。

社殿手前には子を抱いた一対の狛犬があり、その左手にいくつかの境内社がある。天祖神社の他に稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峯神社、疱瘡社が祀られている。


御朱印は社務所でお願いすることができる。インターホンで呼び出すと中に案内され、手作りのしおりもいただいた。猛暑の中でも境内が気持ちよかったのでしばらく休憩させていただいた。


(追記)2019.05.01
新帝陛下御即位を奉祝して頒布された御朱印をいただきました。


2017/05/19

鳥越神社

台東区鳥越にある神社。創建は白雉二年(651年)に日本武尊が東国平定の途中、白鳥村と呼ばれていたこの地に滞在。その時に村民が白鳥明神として奉祀したことが始まりとされる。


その後、前九年の役の際に源頼家が白い鳥に浅瀬を教えられ軍勢を渡すことができたことから、鳥越大明神と改めたと伝えられる。


蔵前橋通り沿いにある鳥居をくぐると参道は真っ直ぐではなく左に折れ、その角に手水舎がある。そこから拝殿までは一直線だが途中で一対の逞しい狛犬に出迎えられる。


境内は小路がいくつも分かれており、参道の途中にある福寿神社の他にも神輿殿の奥に境内社として志々岐神社と祖霊舎がある。


かつては鳥越神社、熱田神社、第六天榊神社の三社があって広大な敷地だったと言われており、その景観が味わえないのは寂しい限りだ。


御朱印は社務所の窓口からお願いできる。由緒に関連しているものと考えられるが交通安全のお守りが目立つ。即座に対応いただいてありがたかった。

浅草神社

台東区・浅草寺本堂の隣にある神社。御祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命で三神を祀る神社なので三社さまと呼ばれている。


浅草・三社祭とは浅草神社例大祭が正式名なのだが、三社権現社としての歴史が長く、明治の神仏分離令まで三社の名称が使われていたことから通称の三社祭の方が有名。


鳥居をくぐると右手に神楽殿、左手が手水舎、正面が社殿という配置で、途中で二対の狛犬が出迎える。また拝殿右奥には境内社の被官稲荷神社があってここには狐像がある。


今回は三社祭の初日ということもあって境内も多くの人で賑わっており、一ノ宮から三ノ宮まで三基ある宮神輿を間近で見ることができた。


なお三社祭期間中は見開きの限定御朱印が授与され、特設の朱印所に御朱印帳を渡して待つことになる。恵比寿神や被官稲荷神社の御朱印も同時に受けることができるようだ。


帰り際まで気がつかなかったのだが、神楽殿のすぐ横にある木陰の中に夫婦狛犬があって、なんともかわいらしい姿。江戸初期からのものらしいが縁結びにご利益があるとか。


(追記)2017.11.06
浅草神社の拝殿の右手を奥に進むと境内社の被官稲荷神社がある。浅草神社の公式ページによれば創建は安政元年、新門辰五郎の妻が病に伏した際に京都の伏見稲荷神社に祈願したところ全快。同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請したとある。


また名称の由来は不明だが、被官とは官を被るという意から就職・出世と解せばよいとある。なお、御祭神は倉稲魂命で五穀豊穣、福徳円満、商売繁盛、立身出世、芸能上達に御神徳があるらしい。


なお御朱印は浅草神社の社務所で拝受できる。例大祭などがあるような時は朱印所は別に設けられることもあるので注意が必要だ。


(追記)2019.05.31
令和になって初めて参拝し御朱印をいただいた。




2017/05/15

新宿諏訪神社

東京・高田馬場駅から歩いて戸山公園近くにある神社。創建は約1,200年前、弘仁年中(810~820年)に小野篁朝臣が、大国主命、事代主命を祭祀したのが始まりとされる。


江戸時代初期に徳川義直公が、信濃国の諏訪神を勧請・合祀して諏訪神社に改称。その後、三代将軍徳川家光公が社殿を造営、家綱公が鷹狩りの手鷹を奉納するなど徳川家に縁がある。


大鳥居をくぐるとすぐ左手に手水舎があり、その水は何百年も湧き出ている霊水で眼病、諸病に霊験があるとか。その先にある二の鳥居と一対の狛犬を抜けると立派な拝殿の前に出る。


お詣りはしなくても大鳥居の前を通ると一礼していくのがよく見られ、さすが「おすわさま」として地域に親しまれているのがよくわかる。


右手奥には神楽殿、拝殿手前の左手には境内社の御嶽神社と稲荷神社の他にも新宿区の有形民俗文化財に登録されている塞神三柱の塔と言われる石碑があるなど、見所も多い。


御朱印は授与所でいただけるが、書き手不在時にはご朱印を受付けていないので注意が必要だ。私は4回目のお詣りでようやく受けることができた。


2017/05/14

福徳神社(芽吹神社)

中央区のコレド室町に隣接する神社。創建は不詳だが貞観年間(859~876年)には既に鎮座していたとされ、当時の村名から福徳神社と称した。


また二代将軍徳川秀忠公が慶長十九年に参詣した際にクヌギの皮付き鳥居に春の若芽が出ているのを見て、芽吹神社という別名を名付けた。


高層ビルに囲まれながらも境内はオープンな造りで赤い鳥居をくぐるとすぐに手水舎と社殿が見える。手水舎の奥は庭園風になっているが、さらに進むと複数のテーブルとベンチが置かれた休憩スペースになっている。


この一帯は再開発後に「福徳の森」と名付けられており、芽吹茶屋という今川焼と飲み物のカフェがある。発祥地と言われる神田今川橋に近いのでそれにちなんだものと思われる。


福徳の森内にはもう一つ薬祖神社も鎮座する。最初は福徳神社の境内社なのかと思ったがそうではない。大巳貴命と少彦名命の二神を祭神とする、もともと日本橋にあった神社が移転してきたものらしい。


なお福徳神社の御朱印は社殿左手にある授与所でいただける。私は持参した御朱印帳に受けたのだが、東京福めぐりの一社にもなっているのでオリジナルの折帖に押印できるようだ。